次のテストには絶対でてきます。
確実ですので予習しておこうっと。
中国・山東省青島で貿易商、写真業を営む三船徳造の長男として生まれる。父は秋田県鳥海町出身。若い頃から良い意味でも悪い意味でもワルだったと言う。その後大連に移り住み、大連中学卒業後、甲種合格で兵役につく。満州陸軍第七航空隊に入隊。写真の経験・知識があるということから写真部に配属され航空写真を扱う。後年もカメラに対するこだわりは深かったという。この時期に知り合った鷺巣富雄とは、その後生涯にわたる交友関係となる。熊本の特攻隊基地で終戦を迎える。
東京の東宝撮影所撮影部にいる先輩である大山年治から「戦後、仕事に困ったら尋ねてきなさい」と言われていた為、カメラマン助手の仕事を依頼。履歴書を提出したところ、「何かの手違いで」東宝第一期ニューフェイス募集に回されていたため、面接を受けることになった。人を食ったような態度(笑ってみて、と審査員に言われた時「面白くもないのに笑えませんよ」と答えたという)で不合格になりかけたが、山本嘉次郎監督が審査委員長をしていた中、山本の弟子ともいえる黒澤明がたまたまそれを目撃した。当時の審査委員会は監督など映画製作の専門家と労組代表の半数ずつで構成されており、黒澤は「俳優の素質を見極めるのに専門家と門外漢が同じ一票ではおかしい」と抗議。結局山本が「彼を採用して駄目だったら俺が責任をとる」と発言し、なんとか及第となる。太々しさの中に見える大器の可能性も買われて補欠採用され、思わぬ形で役者の世界に入った。
1947年に黒澤が脚本、黒澤の盟友・谷口千吉が監督をつとめた映画『銀嶺の果て』でデビュー。雪山で遭難する三人の内の一人を演ずるが、二人目は志村喬だった。翌1948年にはデビュー三作目として黒澤監督『酔いどれ天使』に、破滅的な生き方をするチンピラ役で登場した。主演は医師役の志村だったが、ぎらぎらした野性味あふれる演技で圧倒、一躍人気が上昇する。
その後、黒澤作品には欠かせぬ存在となり『酔いどれ天使』から『赤ひげ』までの16年間で出演しなかった黒澤映画は『生きる』一作のみである。現代劇、時代劇問わぬ黒澤映画の顔であったが、黒澤との確執も伝えられた。三船の死後、黒澤は「会って、三船君、本当によくやったなあ、と褒めてあげたかった。あんな素晴らしい俳優はもういません」と悔やんでいる。ちなみに三船がこの世を去った半年後に黒澤もこの世を去っている。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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